池川明博士という産婦人科の先生がいます。博士は何人もの乳幼児を見ているうちにあることに気が付きました。
それは多くの子供たちがお母さんのお腹の中にいた時のことを覚えているということです。
胎内記憶と専門的には言うそうですが、実際に調査をしてみると1/3ぐらいの子供が胎内記憶を持っていたとのことでした。
更に中にはお腹の中にいたときだけでなくお母さんのお腹に宿る前の記憶を持つ子供もいるようで、
「雲の上からお母さんを見ていた。」
「優しそうだからお母さんを選んだ。」
あるいは「神様に選んでもらってここに来た。」
などと話す子供もいるそうです。
それを信じるか信じないかは自由ですが、もしそれが真実ならば子供は親を選んで生まれてくるということになります。
余談となりますが、よく映画やドラマなどで息子や娘が「誰が産んでくれって頼んだよ~」なんて言いますが、
もし子供が親を選んで生まれてくるならばその答えは、
「あんただよ。」
ということになります。
もうひとつおまけの余談となりますが、中にはお母さんに成長してもらうためにわざと虐待する親を選んでくることもあるそうです。
雲の上などにいて肉体を伴わない受精する直前までの記憶(中間世記憶)を持つ子供や
以前肉体を持ったヒトとして生きていたことを覚えている記憶(前世記憶)を持つ子供が少数ながらいることは確かであり、
(中には夢とか空想ごとと思う人もいるかもしれませんが、)そこから導かれることは受精して胎児が宿る以前から何らかの意識を持つ存在であったということであったり、
あるいは私たちは過去世を持っているということではないでしょうか。
(それが故に乳幼児の性格が親とは違うこと、兄弟の性格が正反対であったりすることも不思議ではないことでしょう。)
残念ながら(?)99%以上の人は胎内記憶やそれ以前の記憶を乳幼児期に覚えていたとしても成長していくにつれ忘れてゆき、ほぼ1からこの世界をスタートすることとなります。
けれども生まれてくる前から何らかの意識のある存在であったならば、この世に生まれてくる前に、親を選ぶだけでなく、
こんなことをしようとか、あんなことを目指したいなどという計画というか想いがあっても不思議ではありません。
ましてや過去世があるならば、前回はこんなことしてしまったから、今世はしないようにしようという反省や、今世はこれを成し遂げようという決意があるのが普通ではないでしょうか?
それらは結局忘れるというか、生まれてから膨大な情報が脳の成長とともに記憶されていき、それがどんどん顕在意識となり、
更にそれさえもその多くが潜在意識とやがてはおしやられていくならば、生まれてくる前の計画や決意が潜在意識の奥の奥に追いやられて、忘れてしまうという状況になるのもおかしくはありません。
けれどもそれはすっかり無くなってしまうわけではありません。
潜在意識の奥底のまたその奥にあるわけで、それが知らず知らずのうちに湧き上がってくることもあるはずです。
それが故に静かに考えている時に、こんなことがしたい、あんなことがしたいという普段とは違った思いが湧き上がってくるのではないでしょうか?
あるいは知らず知らずのうちに(それが浮き上がり)いつしかやっていたということもあるかもしれません。
けれどもこの世界、物質世界であり、更にいろいろな(次元の)人がいるこの世では、それを実現することが難しいことも多々あります。
自分の頭の中で想像し、楽しそう!これならできそう!と思っても実際に行うとなかなかできない、(想像よりもずっと)難しかったということはよくあることです。
もしかすると毎度のことといってもよいかもしれません。
更にそれが自分だけ完結するのではなく周りの人も関わってくるとなるとより難易度が上がってくるわけで…
もうお手上げなんてこともありえることです。
だとすると自分の理想(像)となると、あるいは生まれてくる前に計画したこととなると…
一体どういうことになるのでしょう。
そのような状況に対し私たちはどうすることができるでしょう。
ねばる?
挫折する?
一旦停止する?
どれを選べばどのような結果となるのかは分かりません。
もしかすると壊れてしまい精神を病んでしまったり、あるいは酒や痲薬に溺れてしまう?
下手をすれば自らの手で自らの生を終わりにするなんてことも…あるかもしれません。
まあよほどのことがない限り最悪の事態に至ることはないでしょうが、
ひとつ言えることはどれを選ぼうとそれは自分の意思であり、私たちには自由意志があるということです。
中には自分の意思ではないと思うこともあるかもしれませんが、その流れをつくったのは結局は自分自身であり、無意識のうちの自由意志といってもよいかもしれません。
(もしかするとそれも計画だったということもあり得ます。)
そうして私たちは自由意志でもって日々を積み重ね人生というものを作っていくわけですが、大抵の場合が成すがままとなっているのではないでしょうか?
つまりはよいこともあれば悪いこともある中で人生というものは自ずと形づくられていくものとしているのではないでしょうか?
そして最後に振り返った際に自分の人生「面白かったわ~」という人もあれば、
「辛い人生だった」とか、「何もない薄っぺらなものだった。」と思う人もいるのではないでしょうか?
「面白かった」と言えたならまだよいと思いますが、もし残念なものだったとするならばいかがなものでしょう?
そこで私は思うのです。
成すがままに出来上がったものを受け入れそれを人生とするのではなく、
自分が人生をアートする、
つまり人生とは自分が自分の生き方を選択し描いていくというものであるという意識を持つとどうなるでしょう.
自分がどんな人生を描くか、死ぬときにどのようなアートとなっているか、
それを自由意志で選択して行く中で(人生が)形成されていくとしたならば、
少なくとも受け身ではない人生となるのではないでしょうか?
たとえそれがどれだけ小さな幸せであったとしても、あるいは(もちろん)大きなものを目指すものであっても、
自分自身が選び、描いていくという意識があれば私たちの人生に対する捉え方は変わってくるのではないでしょうか?
そしてそれがたとえ自分が生まれてくる前に計画したものと違っていたとしても、失敗ばかりだったとしても、
自らの手でアートしていると思うならば、きっと人生の向き合い方が変わってくると思うのです。
考えてみれば生まれてくる前にこんなことしようとか計画すること自体がアートであり、
誰の下に生まれるかも決めているならば、
人生を描くキャンバスさえも自分が選んで生まれてくるということになります。
そう考えると私たちはこの世を終え、雲の上に戻った際に最初に雲の上で描いたアートとどれだけ同じものが描けたかを見比べるのかもしれません。
もしかすると神様と一緒に観賞会を開くのかもしれません。神様から「こりゃ!ぜんぜん違うじゃないか~。」なんて言われるかも…。
ならば今から人生をアートするという意識を持ちませんか?
人生というアートはいくらでも上塗りができます。
もしかするとそれが味のある絵となっているかもしれません。
雲の上で神様も「う~ん、ちがっちょるけど、味あるアートやな。」なんて唸らせることができるかもしれませんよ。