縄文の中にある21世紀part2

空中神殿

平成12年出雲大社の境内から巨大な柱が発見されました。それは3本1組となったスギの大木で、それぞれの木は直径が約1.4mあり、3本括ると直径約3mにもなります。その3本が一体となった柱が3体発見されたのです。調査の結果発見された柱は鎌倉時代のものと推定されるとのことです。出雲大社の社伝にはかつて大社の本殿は高さ16丈(約48m)あったと言われており、この柱の発見によりその言い伝えが本当であったろうことが明らかになったのです。高さ48mというと現代の15階建てのビルに相当します。京都にある東寺の五重塔の高さが54mとのことですからそれよりも少し低いものとなります。けれども言い伝えの中には古代の出雲の神殿は16文どころか32文(96メートル)の高さだったというものもあり、もしかするとそれ以前にはとてつもない高さの神殿が建てられていたのかもしれません…。(残念ながら現代の結論としては当時の技術ではそれを作ることは不可能であり、空想・俗説に過ぎないということとなっています…。)

では何故それほどの高さがある神殿が造られたのでしょうか?その理由は明らかにはされていません。けれども実はこの空に浮かぶような神殿こそが縄文時代の人々の思想を引き継いだものではないかと思うのです。残念ながら縄文時代の人々は文字を持っていなかった(?)ためどのような世界観や思想を持っていたのかを言葉で直接知ることはできません。発掘された住居跡や土器や土偶などを頼りに推測していくしかありません。けれどもその思想は今日まで続いているものもあるはずです。何故なら縄文人は滅び去ったわけではなく、その子孫は私たち日本人であり(科学的にも)今でも遺伝子の中に残されているからです。もっとも彼らの思想は限られたある一部の世界に残っているものもあれば、あるいは私たちの日常の中にあり続け、あまりにも当たり前としてあるがために見えないのかもしれません。

海から山への往還

縄文の暮らしや考えが今でも多く残されていると言われている人々がいます。それは北海道のアイヌの人々、沖縄や九州南方諸島の人々、そして本土の海辺に住む人々(海民)です。日本列島の北の端から南の端までそれぞれ離れた場所で生活を営みながらも彼らには一つの共通する神話・伝説や世界観が認められるそうです。それは「海の神が山の山頂に坐る山の女神のもとへ往還する」というものです。この思想は今でも修験道の世界には残されているそうですし、近年まで列島の農耕民の中にカタチを変えつつも残っていたそうです。

出雲大社がいつ創建されたかは定かではありませんが、古事記には国譲りとして大国主命が天照系の神々に譲ったとされています。おそらく大陸から渡ってきた人々と縄文の人々が混ざり合ったものが出雲系(大国主命系)の人々であり、それより後から渡ってきた人々(天照系)に統治権を譲った(奪われた)ものと思われます。その大国主命(出雲)系の人々が古代の大社を建てたのでしょう。ところでこの大社がある出雲平野西部は古代には潟湖(せきこ)が広がっていたそうです。この潟湖と海の間には、大社から砂洲が突き出し、中世にはこの砂洲の先端に設けられた湊社で神を迎えたそうです。そして海からやって来た神は大社の背後に控える北山山系を正面に見ながら、砂洲の上を大社に向かったことになるそうです。このことからかつての高層神殿はまさに「神の海から山への往還」を現わしたものと言えるのではないでしょうか。そしてこの「(神の)海から山への往還」こそが縄文の思想であり、世界観であったと思うのです。

ではこの「(神の)海から山への往還」とは何であるかというと、もちろん神様が海から山へ行き来される(ための道)ということもあったでしょうが、それは当時の人々が持っていた思想の根底に基づくものと思うのです。

古代人の願い

アイヌ、海民、南島の人々でその他にも共通する思想のひとつに、「他界は地下にあり、海辺の洞窟をその入り口として、高山山頂を祖霊や神の世界への出口とする」というものがあるそうです。実際に海辺の洞窟で古代の人骨が見つかることもあるそうです。つまり死者は地下(土に帰ること)を死後の世界の入り口とし、その魂は山の頂上にあるあの世(天)に還っていくというものです。

また世界中の古代人に共通するモチーフとして月、子宮、水、蛇が挙げられるそうです。これらの根底にあるのは「再生」です。月は新月から満月への周期を繰り返します。満月から徐々に欠けていき、新月となり無くなったかのように見えても決して無くなることはありません。再び姿を現し満月へと向かいます。古代の人々はその繰り返しを見て、蘇りや再生を連想したのです。子宮は新たな生命が宿り誕生する場所です。尚且つ女性の生理の周期は月の周期と同じです。そして新たな生命の誕生に水は不可欠です。人間の場合生命は子宮に宿りその誕生まで羊水の中で育ちます。そして羊水と共に子宮から出てきます。その水も熱せば気化し、冷えると氷となるという状態の変化を繰り返しますがやがてはまた水へと戻ります。蛇は脱皮をくり返すと共に、冬眠し春になると再びその姿を現し、まさに再生が繰り返されています。現在の私たちからすると遥かに短い年月で一生を終える古代の人々がそれらを見て自分たちがひとつの人生を終えてもまた再びこの世界に蘇ると願い信じることは当然であるともいえます。それ故これらが「再生」のシンボルとして土器の装飾を始めとして様々なところで取り入れられているのです。

水と循環

さてそれではこの神(の往還)も死者(の帰還)も実際には何を指しているかというと「水」であり、蘇りではないかと思うのです。つまり「神の往還」とは、その意味するところのひとつは、水が気化して見えない状態にあることではないかと思うのです。山に降った雨はやがて川となり、平地を流れ、その行き着く先は海です。海は潮の満ち引きはありますが、どんどん増えて陸地を覆い尽くすこともなく常に一定です。それは海水が太陽によって熱せられ蒸発していくからです。海の水は気化して上空へと上がっていき、再び冷やされて山の雨や雪となります。そして再び川の水となり海へと向かいます。この見えない状態の「水」の姿を縄文の人々は神の世界、あるいは死後の世界と見立てたのではないでしょうか?

そしてこの再生、蘇りの中で繰り返される「循環」、これこそが大自然の法則であり、神そのものでもあったのではないでしょうか。現代のような科学技術のない古代では、地震、雷、台風、火山の噴火、それらの自然現象はある意味神の怒りそのものでもあったことでしょう。けれども狩猟採集の世界では、それぞれの季節の実り、あるいは狩猟にて獲物を捕らえられたこと、それらの収穫すべてが天からの恵みであり、神からの贈りものとして捉えられもしていたことでしょう。それもまた巡りのひとつです。

余談となりますが、これら天からの贈りものに関して、植物の種は適度の温度、湿度・水分によって芽を出します。そして縄文の人々は土器でもって煮炊きし食事をしたわけですが、これも食材を水の中に入れ火でもって熱することで、美味しく(?)安全に食べられるようになります。ここに関わっているものは「火(陽)」と「水」です。「海から山への往還」もまさに「火(陽)」と「水」による状態変化です。この「火」と「水」(=ひみ)こそが「カミ、神」となったのではないかと思うのです。そして台風、雷、火山、地震(津波)などの自然災害に関わるものは「火」「水」「地」「風」です。私たち人間もそれらに「識」が加わりできています。この世界(空)で起こる「火」「水」「地」「風」による現象もまた「神」の現れとなるのではないでしょうか。

すべては巡る

さて、再び「神の海から山への往還」に戻れば、雨、川、海は「水」という物質として目に見えるものですが、水が気化した状態となると目では見えなくなります。それが雲となり、雨となって再び「水」として目に見えるものとなるのです。これと同じように人も今生きている目に見える状態と、亡くなってから新たな生命となって誕生する(目には見えない状態)までの循環でもって人間世界は成り立っていると縄文の人々は考えていたのではないかと思うのです。当時の平均寿命は15才ともいわれます。乳幼児の死亡率はとても高かったことでしょう。現在のような救急医療もない中では緊急時、急性時の死亡率も相当高かったに違いありません。60年生きる人はまさに長老以外の何者でもなかったでしょうし、その60年の人生と知恵は崇めるべきものだったと思います。そのような中で例え幼くして亡くなったとしても、その魂は地下から山の頂上へと移動し、再び子宮から生まれ出るものとして信じていたのだと思うのです。縄文時代には竪穴住居の土の下に骨を埋めていたこともあったようです。それはもしかするとめぐりの中でまた私の元に生まれておいでという願いを込めていたのかもしれません。

さてそうすると「水」も「人間」も見える状態と見えない状態のサイクルの中をグルグルと廻っているわけです。「水」の目に見えない状態、それは神の姿でもあり、それは私たちの身の回りに存在しています。縄文時代の人々はこの見えない水を始め、自然の巡り(循環)そのものを神と感じていたのだと思います。そしてその自然の巡りと共に人間も生きており、その人間もまた同じくその巡りの中で巡っていることを感じていたのではないでしょうか。つまり極端に言えば神も自然も人間もひとつです。それが故に縄文の人々はできる限り自然を人間の都合で大きく変えることをせず、できるだけそのままの状態とし、手を加えることは最小限にして、自然(神)との共生を心がけていたのではないでしょうか。

縄文から現在へ

自然の巡りそのものが神であった縄文時代には、山や森、そして巨石などをそのシンボルとして崇め祭りはすれども、人間の手により建てられる「社」を神の坐ところという概念はなかったことでしょう。(ただし自分たちが暮らす〈竪穴式〉住居を子宮として自然と一体化するものとしてみなしていたとは思います。)「神の社」とは大陸からやって来た人々が持っていた概念でしょう。おそらく一神教なるものであったでしょう。そして彼らは新しい地でもその神のシンボルである「社」を必要としました。おそらく始めは自分達だけのものとしていたことでしょう。けれども列島固有の人々との共存、交わりが進む中で、自然の巡りそのものが神であることを土着の人々から、そして四季豊かな列島からそれを感じ「社=唯一神」と八百万の神の本来ならば相反するものを調和させることとしたのではないでしょうか。こうして神社と自然の恵みが共存するという新しい時代を迎えたのではないかと思うのです。それがやがて出雲の高層神殿へと結びついていったのではないでしょうか?

残念ながら万物・万象に(八百万の)神が宿るという思想は、現在私たちの実生活の思想においてはかなり切り離されてしまったとしか思えませんが、それでも今でも残されていますし、そして神社には神さまがいるという考えが当たり前の如くに存在しています。縄文の人々はこの自然の万物万象に神が宿るということをずっと身近に感じていたことでしょうし、それを基に日常を暮らしていたのではないかと思うのです。その生活は自然(=神、火水)との共生そのものであったことでしょう。けれども現在その自然(カミ)を私たちは痛めつけ、破壊をしつくしてきています。それが故に自然災害(神の怒り)が猛威を振るっているとも言えます。見方を変えればそれは私たちが私たち自身を傷めつけている、つまり自虐しているともいえると思います。このような時代だからこそ私たちはもう一度縄文の人々のあり方を見直してみるべき時なのだと思うのです。それが故に現在の縄文ブームが巻き起こっているのではないでしょうか?自然と切り離すのではなく結ばなければならないのです。

参考文献
「日本人の起源」(洋泉社MOOK)
「縄文人の世界観」大島直行(国書刊行会)
「縄文の思想」 瀬川拓郎(講談社現代新書)
「縄文探検隊の記録」夢枕獏、岡村道雄、かくまつとむ(インターナショナル新書)

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