縄文の中にある21世紀part3~神秘を取り戻す~

21世紀の進化

21世紀となりまもなく20年が経過しようとしています。20世紀とは人類史上においてどのような時代と評されるのでしょうか?その評価が客観的になされるのはもう少し先となるのでしょうが、20世紀最大の進歩としてあげられるもののひとつが「科学」であることは間違いないでしょう。冷蔵庫、テレビ、自動車、飛行機、エアコン、パーソナルコンピューター他様々な機器が20世紀に生み出されました。これらの発明によって人間はかつてないほどの利便を得て生活がガラリと変わりました。更に科学の進歩は人間の生活において便利なものが開発されただけでなく、これまで神秘とされてきた大自然や生命の仕組みなどを明らかにもしてきました。

さてこれまで2回にわたって縄文時代を私なりの視点で解釈してきましたが、それでは当時(6,000年前)と科学が進歩した現代の人々のものごとの捉え方の違いとはどれほどのものなのでしょうか?それを考えてみたいと思います。

縄文と現代比較

まずは私たち人間の誕生を見てみましょう。人間の赤ん坊は十月十日の月日を経て誕生しますが、このことは今も昔も変わりません。おそらく縄文時代の人々もそれは知っていたことでしょう。またそれが男女の交わりから始まることは縄文の人々も分かっていたと思います。けれども交わり後どのような過程を経て赤ん坊となりこの世に生まれてくるかは分からなかったことでしょう。そしてまさにその過程と誕生は神秘であったのではないでしょうか。それが科学の進歩により明らかとなりました。射精された無数の精子は卵子を目指して競争を繰り広げ、その中の一匹が卵子と結合します。そこから細胞分裂が始まり、次々と分裂が繰り返されて、各器官が形成され、やがては人の姿となり子宮の中で十月十日の月日を経て人間の赤ん坊は誕生します。そのひとつ一つの過程が科学の発展により解明されたのです。そして21世紀となった今ではよりミクロな世界に立ち入り、遺伝子情報までもが解き明かされ、それを操作して新たな生物までも誕生させようとする禁断の領域に足を踏み入れてもいます。

では縄文時代における生命(赤ん坊の)誕生はどう考えられていたのでしょう。当時の生命の誕生に対する想いや思想は土偶に一番よく表れているのではないかと思うのです。というのも発掘された土偶のほとんどは女性像であり、それらは胸や臀部が強調され、妊娠した姿や女性器が描かれているものも数多く出現しているからです。中にはまさに赤ん坊が誕生しているような土器も発見されています。これは縄文の人々がいかに生命の誕生を重大なこととして捉えていたかということの証しでしょう。縄文時代の人々にとって赤ん坊の誕生はまさに神秘であったでしょうし、当時の乳幼児の死亡率の高さからすると無事に誕生し、育ってほしいという祈りでもあったことでしょう。また前回書きましたが、そこには魂の再生(生まれ変わり)の願いも込められていたと思われます。


次に当時も現在も変わらずに夜空に広がる宇宙について考えてみたいと思います。現在私たちは地球が太陽系に属していることだけでなく、銀河に属し、その銀河もこの宇宙には無限大の数があることを当たり前の如くに知っています。そして太陽系も銀河も高速で回転しつつ移動していること。宇宙には光をも捻じ曲げ吸収してしまうブラックホールがあること。宇宙は今も膨張し続けていることなども科学の発展により分かってきました。そして私たちは今や宇宙へと出ていけるようになりました。ロケットが打ち上げられ、人々は宇宙ステーションに滞在し、そこでさまざまな実験や観測を行っています。このまま科学が進歩すれば人類が月や火星を往復し始めるのもそれほど遠い先のことではないのかもしれません。

では縄文時代の人々は宇宙をどのように捉えていたのでしょう。それらを知ることは現段階では難しいことですが、彼らの生活の痕跡から想像することはできます。現在の日本、特に都市部では夜空にそれほど多くの星は見られませんが、当時は電気などありませんから夜はどこも真っ暗闇となったことでしょう。けれども晴れた空には感嘆するしかないほどの星が溢れていたことでしょう。流れ星も頻繁に見られたのではないでしょうか。人々は満点の星空を見てはどれだけ想像を掻き立てられたことでしょう。そしてまたどれほどの物語がそこから誕生し、語られたことでしょう。西洋世界ではガリレオが地動説を唱えるまで、宇宙は地球を中心として動いている(天動説)と考えられていましたが、縄文の人々は太陽の動き、月の動き、そして星々の動きをどう考えていたのでしょう。世界の遺跡から地球は太陽系に属していたことは知っていたかもしれませんし、遮光器土偶は一節によると宇宙人(宇宙服を着た姿)という都市伝説もあったりしますが…。また縄文時代には環状列石(ストーンサークル)が各地に作られています。今後のそれらの解明によって当時の人々の宇宙観の一端が分かってくるのかもしれません。


そしてもうひとつ当時も今も時に起る自然現象、自然の猛威について考えてみたいと思います。地震、雷、台風、そして津波などの自然の脅威はどうでしょう。現在の私たちはそれらがどのような過程を経て発生するのか多くの人々が知っています。テレビやネットなどでそのメカニズムが度々解説されていますし、今後はより詳細な予測も可能となってくることでしょう。更に付け加えるならば、今ではそれらを人工的に発生させることも可能となっています。都市伝説化していますが、最近の地震や台風などの多くが人工的なものであると言われたりもしています。これらはすべて科学の進化によってもたらせられたものです。

では縄文時代においてこれらの自然現象(自然の脅威)はどう捉えられていたのでしょうか。それらはまさに神の怒りとして捉えられていたのではないでしょうか。大地震や火山の噴火などどれほど驚いたことでしょう。人々はまさにそれらを神の怒りと感じ、それを鎮めるために祈りを捧げ、時には生贄を捧げることもあったでしょう。ただ当時の人々は現在の私たちよりもより鋭敏な感覚を持っていたと思われます。かつての漁師は空を見て天気が予測できたといいますし、地震や火山の噴火の前には魚や動物の異常行動が見られるとも言われます。縄文時代の大人たちは空の状況、風や湿度の変化、あるいは生き物の異常行動などによってそれらをある程度予知できたのではないでしょうか?

このように科学の発展は神の怒りとして畏れとされていたもの、当時は神秘とされてきたものごとの仕組みを解明しました。それによって人々はそれらを理知的にとらえるようになると同時に対処方法を知り、以前よりも冷静でいられるようになりました。それはある意味神の世界が科学の力によって解き明かされたと言えるのかもしれませんし、あるいは自然現象が神から切り離されたといってもよいのかもしれません。科学の力はそれほどまで大きくなったのです。

科学は世界を変えたか

それでは科学(の発展)は根本的に世界を変えたのでしょうか。人間生活、そして私たちの価値観を根底から変えたのでしょうか。確かに変えたこともあるでしょう。生活スタイルは大きく変わりました。夜でも活発に活動できますし、1日のうちに何千キロも移動することも可能です。けれども赤ん坊の誕生はどうでしょう。確かに科学はその過程を詳細にわたり明らかにしました。更に当時は助けられなかった命が助けられるようにもなりました。当時からすると乳幼児の死亡率は劇的に低くなりました。けれどもどれほどその過程が明らかとなった今でも、赤ん坊の誕生は神秘ではないでしょうか。誕生する際の緊張、そして生まれてきたときの喜びは産む人も、その周りにいる人も変わらないのではないでしょうか?

宇宙はどうでしょう。この先ますます宇宙について明らかにされていくことでしょう。もしかするとこの先膨張する宇宙の先端を見ることができるかもしれません。地球外生命体の存在もまもなく明らかにされることでしょう。そしていつの日か宇宙を自由に旅行することができるようになるのかもしれません。例えそうだとしても夜空の星々を見上げた時私たちは想像を巡らし、夢を見るのではないでしょうか?それは今も昔もこの先も変わりないのではないでしょうか?

自然の脅威はどうでしょう。どんなにそのメカニズムを知り、その対処法が分かったとしてもやはりそれに遭遇すると怖さを感じずにはいられないのではないでしょうか?雷が鳴れば、早く鳴り止んでほしいと思いますし、台風が来れば(何事もなく)早く過ぎ去ってと思い、地震が来れば驚き、早くおさまってほしいと願うのではないでしょうか?そうすると結局どれほど科学が進歩したとしても、それらは神秘であり、恐れであり、突き詰めればある意味縄文時代も今も何も変わっていないとも言えるのではないでしょうか。

確かに科学の進歩は神秘を神秘でなくしたことも確かです。けれどもやはりその奥には今も昔も変わらぬ神秘があるのです。そのことの実証として、画期的な実績をあげた科学者たちの多くが最後に漏らす言葉は「(科学では)解明できないものがある」ということです。彼らはそれを「サムシンググレート 未知なる偉大な力(働き)」と呼んでいます。

共存する世界を

振り返ってみると現在の私たちは科学の発達を善しとし、その便利さを満喫する一方で、自然に対してあまりにも傲慢な生活を送るようになってしまいました。かつては敬い、共生していた自然を破壊してでも便利さを取るようになってしまいました。その結果今では自然からしっぺ返しを食らい、生活だけでなく生命までもが脅かされるようになってしまいました。それでも多くの人が自然よりも便利さを求める暮らしを選んでいるのが現状です。

現代の私たちの暮らしは科学なしには成り立ちません。けれどもこれまで見てきたように優れた科学者だけでなく普通の私たちにとっても神秘は今も神秘なのです。自然災害が多発するようになった今こそ私たち自身もサムシンググレートに目覚める必要があるのではないでしょうか。科学を利用しつつも自然に対してもう一度謙虚にならなければならないのではないでしょうか?そして自然と科学ある暮らしとが共存できるあり方を構築しなければならないのではないでしょうか?今縄文時代が注目されているのはそのことを伝えるために縄文遺伝子が私たちの心をノックしているように思うのです。もう一度神秘を取り戻すためにも縄文人の声に耳をかたむけましょう!!

らいふあーと21~僕らは地球のお世話係~

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