前回人生はアートであり、誰もがアーティストであること、そのことを少しでも意識して生きていきましょう、精一杯生きましょうということを書きました。
私たちはこの世に誕生した時に真っ白なキャンバスを持って生まれ、
そのキャンバスにそれぞれの人生を描いていき、
死を迎える時その作品は完成となるわけです。
けれども時には未完成と思えるままで終わってしまうことがあります。
人生の途中で、不慮の事故で亡くなってしまうということがあるのは誰もが知っていることです。
さて、それでは何故未完成で終わってしまうのでしょうか?
そして本当にそれで終わりとなってしまうのでしょうか?

「袖振り合うも多生の縁」という言葉があります。
この言葉の意味は、
「知らない人とたまたま道で袖が触れ合うようなちょっとしたことも、前世からの深い因縁である。(『故事ことわざ辞典』より)」
ということです。
今ではこの言葉を知っている人自体が少なくなってきたように思いますが、
かつての日本人(東洋人)は何度も何度もこの世に生まれてくる、
いわゆる「輪廻転生」ということを当たり前のように考えていたのです。

余談となりますが、東南アジア諸国の中には、お葬式を盛大に、そして賑やかにするところもあります。
それは亡くなられた人に対し、今世の人生お疲れ様でした、
その死を悲しむよりも、ひと休みしてから次なる新たな人生の始まりをお祝いする
という意味があるのではないでしょうか?

ところが江戸時代の終了と共に西洋文明がどんどんと流れ込み、
それと同時に多くの西洋人が持つ「人生は1回のみ」という考えが、
徐々に日本人にも浸透していきました。
文明の流入は物質だけでなく精神的なものもまでも日本人を感化していったのです。
そしていつしか輪廻転生という思想よりも
「1度きりの人生なのだから謳歌しなくては!」
という考えに被われていきました。
その極致がかつての日本物質文明の頂点、
すなわち昭和の末期から平成初頭の「バブル時代」といえるでしょう。
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しかしバブル崩壊に伴う虚無感と反省から一部の人たちの間で精神文明が見直され始めます。
また科学において量子物理学の発展、遺伝子研究の発展、考古学、そして宇宙研究の進展などに伴い
これまで定説とされていたことがどんどん覆されるようになりました。
更に臨死体験や赤ん坊の胎内記憶の研究がなされ、
西洋におけるスピリチャルブームの広まりが、世界中に広がり、
日本にも逆輸入されるようなかたちで再び(?)「魂」が注目されてくるようになりました。
そしてこの魂は永遠であることが徐々に定説となりつつあるのが現在です。
数十年前にはスピリチャル的なことを言うとオカルト信者であるとか、
(頭が)おかしくなったと言われ白い目で見られるような状態でしたが、
今では若い人たちならば「魂は永遠である」といっても素直に受け入れられるのではないでしょうか?

さてそれでは魂が永遠であり、「袖振り合うも他生の縁」の如く、
私たちはいくつもの前世を持っているならば、それは何故でしょう。
何故私たちは輪廻転生を繰り返しているのでしょうか?

ここで画家という職業の人を考えてみて下さい。
横山大観でもピカソでも誰でも構いません。彼(あるいは彼女)は子供のころから、
あるいは学生時代に絵を描き始め、絵を描き続けていきます。
最初は次から次はへ何枚もの絵を描いていくことでしょう。
中には途中で破いてしまうものもあるかもしれません。
それを繰り返していくうちに絵はどんどん上手になっていきますし、
時には新たな画法を身につけたり、あるいは何らかの衝撃的な経験から画風が変わったりすることもあるでしょう。
そうして彼は彼自身の絵を描くようになり、
いつしか絵にも経験やこだわりから数年に1枚しか描かないということになるかもしれません。
けれどもその一連の過程は彼の成長の歴史となります。
果たしてその最後の作品が彼の完成作となるかどうかは分かりませんが、
そこには、そして作品には彼の歴史が詰め込まれていることでしょう。

魂もこれと同じではないでしょうか?
1つの人生だけでなく、いくつもの人生を体験する、
アートすることによって魂を成長させていくのではないでしょうか。
もしそうならば最初に書いた未完成で終える人生というものもひとつの体験であり、
魂を成長させるものの一つではないでしょうか?
それならばある意味納得しませんか?
中には大した人生を歩めなかったというものもあるかもしれません。
けれども永遠なる魂からすればそれもひとつの経験であり、
だからこそ次の人生はよりよいもの、
より濃密なものとしようと思うのではないでしょうか?

こうして永遠なる魂はいくつもの人生、
つまり転生を繰り返すことによって「成長」を遂げていくのです。
ここでもしかすると「ではその永遠なる魂はどうなるのか」、
「何のために魂は成長をしていくのか」というような疑問が出てくるかもしれません。
それらをこれから少しずつ解いていきたいと思うのです。