幸福幻想の中に生きている私たち
先日豊かに生きていくためには運を育てることも大切と思い、開運講座なるものに参加しました。
人間努力だけでは成しえないことはたくさんありますし、誰だって運が「悪い」よりも「よい」ことにこしたことはありませんからね(笑)。
運が良ければそれだけ喜びも増えるものです!
さて講座の開始早々に言われたことが、「開運する為の前提として、今あなたが心に描いている幸福像を捨てること」と言われました。
何故?と思うかもしれませんが、どういうことかというと世の中大半の人が抱いている幸福とは社会、特にマスコミによって意図的に与えられた「幸福幻想」であり、それは人々を幸せにするものどころか苦しめるものだからとのことです。
私たちが意識に埋め込まれた幸福(幻想)を求めれば、求めるほど彼らの罠にはめられるのだそうです。
その理由を詳しく述べることは別の機会にしたいと思うのですが、それではその幸福幻想とは何かと考えてみたところ、大人となった今現在の幸福幻想ももちろんありますが、それ以前の子供時代から私たちは幸福幻想を埋め込まれ、間違いを犯しているのではないかと思うようになりました。
それは何かというとズバリ「教育」です。
もちろん現在の教育のすべてが悪いわけでなくよい点もあるとは思うのですが、ベースとなるところがずれてしまっているために多くの子供たちが悩み、苦しめられているのだと思うのです。
そこで今回現状の教育を踏まえてこれからの21世紀のあるべき教育について書いてみたいと思います。
安泰の時代
まずはじめに私ごととなりますが、子供のころよく言われていたことが「いい大学に入って、いい会社に就職しなさい。まあ公務員は給料は安いけど…、安定しているからそれもいいわ。」ということでした。
この言葉の意味するところは「安泰」です。私も(大学生までは)それを言われるままに信じていました。
そして中学3年のころから勉強に励むようになりました。
高校受験の面接で志望動機を尋ねられた際には、当たり前のように「大学に行くためです。」と答えましたし、高校では先生から「○○高校に負けるな、△△高校に追いつかれるな。」と発破をかけられ、それに応えようとより一層勉強に励みまもしたものです。
よいところへ就職し、安定した生活を送ること、つまり「安泰」にこそ幸福はある。
もちろんその通りでもあるのでしょうが、私の学生時代から四半世紀以上が経ち、社会環境は大きく変わりました。
現在それはどうかといえば、一流企業といえどもリストラは日常茶飯事に行われていますし、民間企業よりも公務員のほうが給料が高くなっているぐらいです。
ではその公務員はどうかというと、これもまた絶対的安定が揺らぎつつあるのが現状です。
絶対的安定などどこにもない社会情勢となっています。
しかしながら現在の子供達が言われていることは、基本的に私が子供の頃に言われていたこととそれほど変わってはいないのではないでしょうか?
何故なら子供たちは小学校の頃から中学受験にさらされたり、多くが塾へ通うのは当たり前のこととなっており、今では小学生時代から全国学力テストというものが導入されています。
大学など(選らばなければ)誰でも入れる時代となっているにも関わらず、むしろ私たちのころよりも低年齢のころからプレッシャーが与えられているのではないでしょうか。
競争が埋め込まれる
さてそれでは昭和後半頃の私たちの時代と現在の子供たちと共通しているもの~私たちの時代というよりもそれ以前から今日までずっと共通しているもの~は何かというと、それは「競争」です。
子供たちは常に競争をあおられ、人よりも抜きんでよとお尻を叩かれているのです。
(もしかすると最近の若者の活躍を見ていると、以前よりも勉強がだめなら、勉強以外のことで人よりも抜きんでよと努力〔競争〕を要求されているのかもしれません。)
そして競争に勝ったその先に幸福があるという意識を植え付けられているのです。
これこそまさに子供の頃に植えつけられた「(幸福)幻想」のひとつであり、それが大人となっても続いているのではないでしょうか?
何故このようなことを書くかというと私自身の反省を踏まえているからです。
私は先に書きましたが、思春期の多感な時期を勉強一筋で過ごしました。それはそれでよかったと思うこともあるのですが、思い返せば常に競争をあおられ、いつも人よりも上に行くことばかりを考えていました。
けれども私の頭脳IQでは勉強して上に行くのも限度があります。
一生懸命勉強しても勝てなかった人はいくらでもいます。同級生の中には勉強に関して半端ない人はたくさんいました。
結果私は中堅どころの高校に進学し、中堅どこの大学へと進みました。
そして今振り返ってみれば、私は人の心我関せずとなってしまい、今でも私は人を妬むことが多々ありますし、自分の方が上位(優位)に行かなければ、勝たなければといういう気持ちが無意識のうちに出てしまいます。
当然ながらおもいっきりKYです。
けれどもいつの頃からかそれは間違えているということに気づき始めたのです。
本当は競争する必要はないのです。
もちろん競争のすべてを否定するつもりはありません。
これまで競争によって社会が進化した面もあります。
競争によってお互いが切磋琢磨し、進化することもあります。
しかしながらその競争が行き過ぎるとどうなることでしょう。
それが現在ではないでしょうか?
先日江戸時代にパラダイスが作られたことを書きましたが、日本を訪れた西洋人が驚いたことのひとつは庶民の教育水準の高さでした。
日本には寺子屋という私塾が全国に広がっていました。
そこでは読み書き算術など実用的なものを中心に、儒学等様々な学問が教えられていました。
一説によると7,000種類の教科書があったとも。
そして子供たちは先生を師と仰ぎ学問から、そして師から道徳や人間学も学んでいました。
更に同年齢の者に一斉に同じものを教えるのではなく、一人ひとりの能力に合わせたものを教えていました。
この教育こそ日本人に礼儀をわきまえさせ、人々を温かく迎え入れるパラダイスがっ作り出される一要因となったともいえます。
それが明治となり公的教育が整えられはじめ、中央が決めたものを一律に学ばされることとなり国に仕える国民を育てることが教育の中心とされてゆきました。それはやがて「競争」原理をベースとし、人よりも勝るその先に幸福があるものと洗脳されていくのです。
本来の教育
繰り返しますが、本当は競争などする必要はないのです。
なぜなら人間は1人ひとり違っているのが当たり前だからです。
それぞれに個性があるからです。
人間というよりもすべての生命といってもよいかもしれません。
教育とは、基礎的なことを覚える、覚えさせることも大切ですが、より大切なことは1人ひとりが持っているものを引き出してやること、そして伸ばしてやることです。
それは人生を通じての好きなこと探しでもあり、大自然との付き合い、人との付き合い、そして道徳から生まれてくるものなのです。
本来先生を始め大人たちが教えるべきことは、競争させ相手に勝つことではなく、一人ひとりの能力を掛け合わせより豊かにする方法であり、1+(プラス)1を2ではなく、3にも4にもする方法なのです。
もっと簡単に言えば、1本1本の竹ひごは簡単に折れてしまいますが、それを10本に束ねればなかなか折れなくなり強くなるということです。
そのために必要なのがコミュニケーションであり、そのコミュニケーションは共通点を見いだすことから始まるのです。
コミュニケーションとは
世界的エコロジストのサティシュクマールはコミュニケーションについて次のように話されています。
そもそもコミュニケーションとはなんでしょう。この言葉は、「ともに」を意味する「コン」に、もう一つ、「ユニーク」という言葉がくっついてできている。ユニークとは、「一」ということ。だからコミュニケーションとは要するに、「一緒になって一つになる」ということなのです。
では、どのように一緒になるかですが、まず私があなたを理解する、そしてあなたが私を理解する、それで一つになる、というのが筋道です。ですからコミュニケーションで大事なのは、まず語らずに聞くということです。沈黙が第一歩です。沈黙し、そして耳を傾けてください。そして次に聞いたことを消化します。聞いたのはこういうことだ、いや、こうかな、やっぱりこういうことだ、というふうに確かめながら消化する。
次に、相手が言ったことを確かめたら、今度は、その中で一番よい面を見出してください。つまり肯定的に相手の言ったことに向き合って、中からよい質を選びだすのです。批判的な態度で、おかしなところや足りないところを探すのではなく、それを補完するにはどうしたらよいか、という態度で、相手と一緒に何かをつくっていく。壊すのではなくて、建設していく。
そう考えると、コミュニケーションがうまくいかないという時には、往々にして、実はコミュニケーションしようとしていないのです。むしろ自分の考えを相手に押し付けようとしてしまっている。それは対話ではなく説教です。
というわけで、コミュニケーションとは、一つのものをともに建てること。そして、一つになるということこそが本来の目的であることを肝に銘じてください。
耳はなぜ二つあると思いますか。それは「一度ではなく二度聞く」ということではないでしょうか。とにかく相手の言葉にしっかり耳を傾けることから始めましょう。
「サティシュクマールのゆっくり問答 with 辻信一」(ゆっくり小文庫)より
いかがでしょうか。
これならば競争ではなく、お互いを認め合い、一緒に作っていくことができます。
1+1を3にも4にもできるのではないでしょうか。
今社会はシェアという概念が広がりつつあります。シェアハウスもそうですし、カーシェアリング、シェアバイクなどのいわゆるシェアエコノミーもその芽が出てきたものといえるでしょう。
そしてこのシェアこそサティシュの言うコミュニケーションが必要ではないでしょうか。
若者の間では競争するよりもシェアすること、そしてつながることを選び始めています。
やがてはそれが社会を覆っていくこととなるでしょう。
そしてそれは大自然の中にある本来の法則でもあります。
競争の根底には分かち合うことがあるのです。
私たちは分かち合うことでより豊かになることができるのです。
掛け合わし新たなもの生み出すことで進化していくのです。
その為に根本として必要なことはお互いを認め合うこと、一人ひとりの生命を大切にすることであると思うのです。
そしてそれは人間同士はもちろんのこと、すべての生命に対しても必要なのではないでしょうか。
新元号と21世紀づくり
現在不登校者は増加し、学級崩壊が起こるなど学校教育の在り方が問われています。
同時に日本の中央集権体制、並びに大企業中心社会のあり方が揺らいできています。
すなわち明治から150年につくられてきた仕組みが足元から揺らいでいるのです。
子供たちも社会もこれまでにつくってきた仕組みに「NO!」を突きつけているのです。
子供たちには教育が必要です。
けれどもそれは決して「競争」をベースにしたものではありません。
共に奏でること、共に生きることです。
21世紀に人間がこの地球で持続可能で豊かな生活を送るためにも、根本から教育を見直す必要があるのではないでしょうか?
「競争」を「協(共)奏」に変え、地球との共生をベースにそれぞれがオリジナルなアートを追求する世界を目指していきませんか。
平成時代も終わりを迎え、新しい時代に入ろうとしています。
元号だけでなく子供時代からの教育も変えて新たな時代の始まりとしませんか。
そうすればきっと日本の運、世界の運も開けていくこととなるでしょう。