これまで半世紀以上生きてきた。その中で得た私のモットーのひとつは、
人生は、冒険であり、旅であり、巡礼である。
ということだ。

リアルアドベンチャー
振り返れば20代~30代半ばは、実際に旅に出て冒険をするという日々であった。
私の冒険の旅が始まったのは、大学3年の時だった。今でも覚えているのが、本来ならば楽しい夏休みのはずが鬱チック状態となり、何もする気が起こらず、ほとんどアパートにこもり、ただ鬱々とした日々を過ごしていた。
数か月して、その状態から抜け出したいと思うようになった。そこで考えたのが、「このまま日本にいてはダメだ。海外へ脱出しよう。」ということだった。
以降、紆余曲折ありながらも準備を進め、翌年の4月、高校の修学旅行でしか東京へ行ったことのない自分が、いきなり一人で東京を経て成田空港へ向かい、オーストラリア(パース)行きの飛行機に乗った。
そして、英語もろくにしゃべれないまま、約1年間を過ごすこととなった。(参考までに今でもよく覚えているのだが、修学旅行の出発前に先生が、「東京は生き馬の目を抜く」と言われる場所です…、と注意を促していた。(笑))
社会人となり、2年目の夏休みから有給休暇も加えて約1週間の休みを取り、寝袋と、時にテントを背負って海外へ行っては放浪するようになった。そして社会人4年目の夏の放浪後、帰国すると同時に退職届を提出し、再びバックパッカーとなり、東南アジアを放浪した。
私にとって20代は、見知らぬ国を訪れては歩き、大自然の中を黙々と歩き、ある時は遭難しかけて死を真剣に考えた。夜の街を徘徊し、銃声にビビって股間を縮め宿の部屋に潜った。そんなスリリングな日々を過ごした。
30代となると海外から山へと興味が移り、仕事合間の休みの日には山を登るようになった。しばらくして弘法大師空海に興味を持ち、いつしか低山ながら連山を駆け巡り、頂上に到着しては般若心経を唱えるという修験道まがいのことを始めた。
そしてついには仕事を辞めてお遍路姿となり、四国88か所を鍋とテントを背負って歩いて回った。今思えば、それが最後のリアルな旅の冒険だった。

INTELLECTUAL(知的)アドベンチャー
大学を休学し、約1年間オーストラリアで過ごし、4月に戻ってきたら、大学時代の友達はほぼみんな卒業してしまっていた。そのため、空いている時間は本を読んで過ごすことが多くなった。今思えばそれは知的冒険の始まりでもあった。
1~3年生のときと打って変わって大学の授業にもきちんと出席し、就職活動も(一応)行い、時にバイトをしたりもしたが、それでも時間は山ほどあったのでいろいろな本を読んだ。
とにかく「この先、どう生きればよいか」との思いが強く、若者へのメッセージ性の強い本(雑誌も含む)を読み漁った。それは社会人となってからも続いた。
いつしか、本を読むだけでなく、「若いうちにもっと感性を鍛えなきゃ」と思うようになった。美術館や博物館を訪れては絵や美術品を見て回り、レンタルショップでビデオを借りて映画(主にヒューマン系)を見たり、小規模な映画館を訪れてドキュメンタリー映画などを見たりして休日を過ごした。
そうした探求の中で、先に書いた弘法大師空海と出会い、空海についての書籍を読みふけり、空海が見た世界とはどのようなものだったのかを知りたいと思い、ついには四国遍路1200キロを歩いて回り、最後には、当時「弘法大師空海に最も近いのではないか」と思った人の下を訪れ、約1か月間修行をさせてもらった。
その後も書籍を次々と読み、自分の人生に大きな影響を与える数多くの本に出合った。読む本のジャンルはどんどん広がっていった。いつしかスピリチュアル関係の本も多く読むようになり、見えない世界、宗教的世界、そして自然世界への探求も深まっていった。そこから行きついたのが「陰謀論」という分野であった。
それまでにいろいろな本を読みまくっただけに、世の中で「陰謀論」と呼ばれているものの中にも、単なる荒唐無稽な話ではなく、既存の常識では説明しきれないものがあるのではないかと思うようになった。
今思えば、それがコロナのパンデミックの際には大いに役立ったと思うし、現在のような不透明な時代の中でも、必要以上に不安になることなく生きていられる。

WORKアドベンチャー
大学を卒業し、入社したのは某製造業であった。営業として東京にある営業所に勤務することとなった。半年間車が与えられず、毎日ひたすら自転車で走り回った。いわゆる「ローラー営業」ということで、次々とクリーニング店や工場などにアポもなく飛込んで回った。
雨の日以外は来る日も来る日もチャリンコを漕ぎまくり、いったいどのくらいの距離を走ったのだろう。半年の間にパンクすること数知れず、タイヤを2本ぐらい交換したと思う。
けれども正直、製品にはあまり興味を持つことができなかった。当然ながら売上げもさほど上がらず、1年後には営業をクビになり、メンテナンス部門へと異動となった。
メンテナンス部門に移ってからもそれほど興味は持てなかったのだが、仕事上必然的に電気の知識、水や配管の知識、油やガスの知識が身に付き、それが後々役に立つことになる。その仕事を離れてもう20年以上経つが、今でも家や農業におけるちょっとした水回り等のトラブルは業者に頼らなくとも自分で対処できるので、あの時の仕事はとてもありがたい経験だったと思っている。(ちなみに営業時代のローラー経験も、独立後に大いに役立った。)
その後(4年目の)夏休みの旅で、アメリカのイエローストーン国立公園を訪れ、広大な公園の中をグネグネと蛇行する川を眺めながら
「転がり続ける人生を歩もう!」
と決心し、会社を辞めることにした。
約1年間のインターバルを経て、次に始めた仕事が、高齢者福祉であった。前の仕事とはまったく畑違いではあったが、私にとってそれは天職であった。排泄介助に慣れるまでに少し時間が必要であったが、高齢者のお世話をすることは全く苦ではなく、楽しくて仕方がなかった。むしろ私の性格上、職員同士の人間関係の方がしんどかった。
そのため、何度も職場を変えることにもなったのだが、私としては毎回そこでできることはほぼ全部やったと思う。
そして高齢者福祉を始めて十数年目、ひとりの高齢者の看取りをしたとき、背中から何かがス~ッと抜けていく感覚が生じ、それとともに高齢者福祉への興味もなくなっていった。ちなみに、この高齢者福祉時代には、現場をはじめ、様々な場所でスピリチュアルな体験をした。そのせいで先に書いたスピリチュアル関係の本を読むようになる一因ともなった。
その後地域づくりの職に就くために官公庁にて2年間勤め公務員という立場を経験し、そこでつながった縁から再び福祉、今度は障害者福祉に関わることとなり、それがまた新たな縁を生じ、個人事業主としてではあるが、まさかまさかの独立開業することとなった。
それから今日まで十数年、農業もしつつ、いかに自分のオリジナルなことを仕事とするかで日々頭を悩ませつつ(?)次々と変化しながら日々を楽しんでいる。
民間企業から始まり、高齢者福祉、官公庁、そして障害者支援に携わり、独立して、農業とオリジナルな事業と、まさに仕事においても冒険をさせてもらっている。

ところが昨年、これまでの人生で、自分から飛び込んでいった冒険とは違う冒険が、突然向こうからやってきた。
そしてDISEASEアドベンチャー
昨年(2025年)の夏も、とにかく暑かった~。汗だくになりながら農地の開墾をしていた。8月の末に献血センターを訪れ、400mlの献血をした後に、汗が滴り落ちる中で大地に鍬を振り下ろしていると突然心臓に痛みを感じた。
「熱中症か?でも、これはやばいのではないか!?」と感じ、開拓を中止したのだが、以降なんとなく身体のあちこちに不調を感じるようになり、無謀な作業はなるべく控えるようにした。
それでも、体がだるい。おしっこが近い、汗が無茶臭いということが続き、ある日お風呂上がりに鏡を見るとずいぶん胸の筋肉が落ちていることに気づいた。そこで体重を測ってみると10キロ痩せていた。
ネットで自分の症状を検索すると、重度の糖尿病の可能性大とのこと。これはさすがにマズいと思い、(基本私は病院嫌いなのだが)糖尿病専門外来を訪れ、検査してもらったのだが、血液検査、尿検査のどちらにも異常は見られなかった。ただ、その際に血圧が高いことが分かった。(8月とその前の3月の献血の際には血圧の異常は見られなかった。)
それから1ヶ月様子観察をしていたのだが、ある日の夕方興奮した猫に右手を噛まれ、翌日には腫れあがり、痛みも生じていた。骨にひびでも入ったかと思い病院に行くと、骨折はしておらず、切開洗浄されたのだが、次の日も腫れは引くどころかますますひどくなっており、医師から「今日の16時から手術、入院!」と言われ人生初の手術と入院することとなった。
入院して毎日朝晩に血圧を測られるのだが、毎回血圧が高かった。高いといっても140~160台なのだが、ある日許可をもらって朝から外出し、夕方病院に戻ってくると198まで上昇していた。
退院の日に「一度循環器科などを受診して、きちんと診てもらった方がいいですよ。」とのことで、近所の病院に受診し、本当は飲みたくなかったのだが、しばらく血圧の薬を服用することとした。
最初は薬が合わなかったのか、種類や用量を変えながら服薬していたのだが、血圧を改善するためにも、また薬(石油系ドラッグ)を止めるためにも運動が大切であると思い、毎日ウォーキングをするようにした。すると血圧も安定してきた。
血圧は安定しており、もし上がっても160代であるならば許容範囲と考え、自己判断でもう降圧剤を飲まなくてもいいのではと服薬をやめると、ある時から今度は動悸がするようになった。
その都度血圧の薬を飲めばしばらくすると収まったのだが、ある日、動悸が激しく「これはヤバイ!」と思い循環器科クリニックに駆け込んだ。そこで心電図、心エコー、血液検査を行ったのだが、特に問題は見つからなかった。念のために造影CTを撮ることも勧められたのだが、しばらく様子を見たいと断った。
それから数週間後、再び動悸が生じ始め、今度は痛みも伴ってきたので、「やはりこのままではいけない。とにかくこの原因を探らなければいけない!」と思い、ついに造影CTを撮ってもらうことにした。
一週間後の朝一番に造影CTを撮影し、予定では検査結果は2週間後の再受診の際に教えてもらうこととなっていたのだが、「今日、主治医はいないのですが、院長がいますので、代わりに院長からお話があります。」とのこと。
「こりゃ何かあったな・・・。」と思いつつ、診察室に入ると写真を見せられ、
「冠動脈の3本のうちの1本が75%以上詰まっています。いわゆる冠動脈狭窄による狭心症です。手術(ステント留置)が必要です。手術は30分もあれば終わります。ただし一生薬を飲まなければなりません」とのこと。
なんだそれ!と思いつつ、
「本当に手術をしないといけないのか? 他に方法はないのか?」と尋ねてみると、
「そんな方法があったら医者はいりません!カテーテルを入れて再度検査。」と言われ、そうすることにした。

そして2週間後に1泊2日の検査入院をすることになったのだが、手術(ステント留置)は絶対に避けたい!と思い、これまでの知識とネット等で冠動脈狭窄について調べ、検査入院までに枇杷温灸、ゲルマニウムを使った整体をしてもらうとともに、3日間のファスティング(絶食)を実施した。
3月『13日の金曜日』14時から心臓カテーテル検査が始まった。カテーテルは手首の動脈から心臓にまで達した。やはり狭窄は確認された。ただ、血流検査の結果、現時点では手術まではしなくてもよいとのことで、ひと安心したのだが、
「一生、薬は飲み続けなければなりません。」とのことで、コレステロールを下げる薬と冠動脈を拡張させる薬が処方された。

繰り返しとなるが、私は基本薬嫌いだ。漢方ならまだしも西洋薬(石油由来の薬)が嫌いだ。家に帰って処方された薬を調べてみると、やはりこれを飲み続けるのは嫌だと思った。ネットでひたすら治す方法を調べたが、少なくとも自分が調べた限りでは、食事療法と運動療法を行いながら現状を維持していくしかないという情報が多かった。この時私は思った。
「これは冒険だ。どうやって根本から治していくか。かつて遭難しかけ一度はあきらめたこともあるこの命。再び奇跡が起こるか、未知へのチャレンジだ!」と、この病気が冒険へと変わった。
ということで、現在は、自己判断で服薬をやめ、食事療法、運動療法を中心に、枇杷温灸や整体に通っている。(※もちろん、ここに書いているのは、あくまで私自身の判断と経験です。決して服薬の中止や、その他の療法を勧めるものではありません。)仕事や農作業も控えめにし、療養期間としている。
服薬をやめて以降、少し無理をしてしまうと、痛みと共に、心臓が溶けていくような感じがして調子が悪くなる。そのため毎月1回はもうだめだ、いつまでこの命が続くかわからないと思うことが続いた。一時は寝たきり状態にもなりかけ「我が人生に悔いはなし!」と腹をくくったこともある。
けれども都度、整体等を受けたのが良かったのか、あるいは毎日神仏に祈りを捧げたのが通じたのか、何とか乗り越えることができ、こうして生きている。そして今では少し良くなりつつあるのではないか…!?という小さな希望が見えてきた。

巡礼の旅は続く
ということで、我が人生を振り返ると、リアルな冒険から、知的冒険、仕事における冒険、そして新たに病気治療の冒険といろいろな冒険をさせてもらっている。
今この時点から過去を振り返ると、そこには1本のグネグネと曲がりくねった道があり、今日まで随分と旅をしてきたように思える。そして、ここまで生きてこられたことをありがたく思うし、これから先も旅は続き、それは巡礼の道でもあるように思うのだ。
今回の❝ 人生 ❞という旅がいつまで続けられるのかは分からない。できればあと25年ほど生きて、2050年の世界を見てみたいとは思うのだが、もしかすると明日終わりを迎えているかもしれない。それはもう天にお任せするしかない。
先日、お寺を訪れ虚空蔵菩薩さまの前で、「2050年まで生きたいのですが…」とお祈りをすると、
「(お前に)それだけの価値があるのか?」と問われた。
「ホンマや。自分にそれだけの価値があるだろうか?」と思いつつも、
「それだけの価値があるように努力します。」と答えたのだが…、虚空蔵菩薩さまはどう評価されるだろうか???
あと何年生きられようと、その日が来るまでこの冒険を楽しみたいと思う。
人生は、冒険であり、旅であり、巡礼だ!
