冬の海岸読書
令和6年1月14日(日)晴れ
当初の予定では、午後からは畑に行って作業をしようと思い、作業着に着替えようとしたところ、あまりに天気がいいので、「畑仕事をするよりも海にでも行きのんびりしたい!」と思い、急遽車を走らせ近くの海岸へと向かった。
車から降り、ジャンパーを重ね着し、首にはネックウォーマー、手には指先の出る手袋をはめ防寒対策もバッチリ! 胡坐がかけるという「あぐらチェア」なるもの、熱いお茶を入れた水筒と、そして1冊の本を持って浜辺へ行き、椅子をセットし準備完了。あぐらをかくことはせず椅子に座って本を読み始めた。
風は冷たいながら、暖かな格好と、柔らかな日差しのお陰で寒さを感じることもなく、快適に小説を読むことができた。
1時間ほど本を読んだところで、少し目が疲れてきたこともあり、本を砂の上に置き、脚を伸ばし、目を閉じて、しばらくボ~っとすることに。
本を読んだ満足感、冬至から1ヶ月ほど過ぎた太陽とその暖かさ、瀬戸の静かな波音、砂の柔らかさ、どれもが気持ちいい。冷たい風さえも心地よく感じ、なんだかすべてに満たされているように思えると同時に、私の中になんともいえぬ安心感が広がってきた。
しばらくその安心感に浸っていると、ふと、「政治って、民に安心をもたらすものではないの?」ということが頭の中をよぎった。
政治とは
民(国民)に基本的安心を与えること。
それはまず衣食住(特に食と住)がきちんと満たされていることから始まる。
その安心感(安心の実感)があるからこそ人々は、国や政治を信頼することができる。
同時に自らも誠を尽くすことができ、分かち合い、和をなすことができる。
更には「公」にも尽くすことができる。
またこの安心感があるからこそ、より多くの人々がチャレンジすることも可能となってくる。
これこそが政治の基本であり、目指すところではないだろうか。
日本の政治
ところが現代の政治と言えば、国民に自己責任を強要し、安心を与えるようとするどころか、不安を煽ることばかりしている。
格差の拡大と共に子どもの貧困が広がり、全国に子ども食堂が設けられ始めた。今やその数9000ヶ所以上となっている。それに対する国の政策と言えば、子ども食堂を応援しましょうとの宣伝活動…。
高齢社会に対して、老後安心して暮らしたければ2,000万円は用意しておけと言い、それができないなら70歳まで、いやそれ以上になっても働けと迫る。それを生涯現役とこの国は呼ぶ。きっと裏では貧乏人は死ぬまで「雇われ」働き続けろと言っているのだろう。
元旦に起こった能登の大地震。ただでさえ気の毒で、心痛むことであるのに、国のすることは被災者に対して、「20万円貸してやる。けど、ちゃんと返せよ」と言う。
そのくせ自分たちは、利権の保持と拡大、地位と権力の維持に躍起になっており、賃金上昇を目指すと言って自らの給料を上げ、災害と万博は別物であるとし、利権満載の万博の開催に(東京オリンピックとコロナ同様)固執し、更にはあれこれと増税につながる政策を打ち出し、それが国民の責務という。
まるで地上げ屋かやくざまがいのことをしているのがこの国の政策だ。
正直〈ホント〉こいつらも~要らんわ~!!と叫びたくなる。
西洋政治
ところで、現在の日本の政治は、西洋方式をベースにしていると思う。
民主主義。民を主(第一)とする原則、思想。その言葉の響きはいい。けれども西洋の歴史を振り返ると、それは土地の奪い合いであり、権力の争奪戦、そして搾取の歴史と言っても過言ではない。
権力者は、腕力や武力で制することから始まり、搾取を繰り返している。民が力を増し、民主主義という制度を取り入れたものの、国を運営するという名目で、税を徴収し、搾取し、見えないところで暴力や脅しを繰り返している。(殺すことさえ厭わない。)あるいは弱い国から搾取する。そしてこのところそれはますますあからさまとなると同時に国民の監視統制を強めている。
けれどもそれは権力者だけでなく大衆においても同じ要素を持ち合わせている。
彼らはディベートを称賛する。けれどもその中身は勝ち負けであり、あくまでもWin-Lose(白黒)つけることをベースにしている。結局は上下をつけたがるのが西洋主義である。それにプラスしてお金を払って敏腕と呼ばれる弁護士を雇えば、黒を白とすることも可能。
そして日本もそれを取り入れ、黒を白とし、国民からの搾取を繰り返し、民を押さえつけるために権力者たちはこのところ統制を強めようと躍起である。
21世紀のネット政治
ということで今の日本の政治(特に国政)はもう終わっている。一刻も早く潰れてほしいと思う。ではそのあと誰が国の運営を行うのかというと、それこそITやDXによって、ブロックチェーンやSNSなどを用いて直接民主主義のようなことをすればよいのではないだろうか。
国会議員や官僚の代わりにAIを用いる。事務的なものはすべてAIに任せ、そして税の徴収をほぼなくし、国家事業としての予算は、発案者がクラウドファンディングを用いて国民や企業からその経費を募るようにすればいいのではないか。そのようなシステムをつくることは現代技術で可能ではないかと思うのだが。
Gerd AltmannによるPixabayからの画像
「私」を成り立たせるために
現在の人々の暮らしとは、「私」を成り立たせることを中心としている。けれども暮らしは、「私」だけでは成り立たない。「私」を成り立たせるためには必ず「公」が必要であり、何らかのカタチで「公」を担う必要がある。その「公」を現在は、市政、県政、そして(一応)国政などの行政機関が担っているわけだが、多くの人々は「公」をそれらの機関に任せっぱなしとなり、「私」のみの追求となっている。
その任せっぱなしが過ぎ、また日本国民はお上を信じる体質であるがゆえに、いつしか民からの距離が離れる機関(市政<県政<国政)ほど、機関(者)利権追求型へとなってしまい、同時にそこに属する人々が自身の「私欲」追求に走り、先に書いたような事態が起こっている。
この体制を崩すためには、一人ひとりが「公」への関わりを意識する必要がある。そして金がある者は金を出し、力(筋力)ある者は筋力を出し、知恵ある者は知恵を出す。そのような意識を持つことが必要だ。更にそのうえで自らの能力を開発(進化)させて、よりよい社会を形成していくことが必要である。
もちろん一人ひとりがいきなり大きな「公」を担うことはできない。そこには大きな視野も必要だろうし、積み上げられた経験や知恵も必要になってくると思う。その人に応じたところから担っていくことが必要である。
それをどうすればよいかはこれからの課題であるけれど、とにかく任せっきりにして、「私」のみの追求を反省する必要はあると思う。
政=まつりごととは
政治の「政」は「まつりごと」とよむ。それは正すことでもあり、整え治めることでもある。それゆえに現在の不正を繰り返し、不安を煽る政治は名ばかりの政治であって、本来の政治ではない。
また「まつりごと」は祭ごとでもあり、それは神に仕え、神を祈り、神の声を聞くことでもある。
日本人の「神」とは、天照大神様を中心にとなるのだが、それは太陽であり、もっと広げれば大自然である。けれどもそこにはもうひとつあると思う。「自分自身」も含まれるのでないか。
故に日本ではそれを総じて「お天道様」と呼び、「お天道様が見ている」、「お天道様に顔向けできない。」、あるいは「お天道様に恥じない生き方」というのではないか。
どんなにうまく嘘をついても、神さまには嘘をつけない。それ故、「見ている」とも「顔向けできない」という。同時にどれだけ上手に他人を騙せても、自分自身はそのことを知っている。自分自身に噓をつくことはできないのである。
日本人にとって「道」とは生き方でもある。神さまにも恥じない、自分自身にも恥じない生き方をしなければならないのだ。それが「天道」。
それ故に私たちは、神、大自然はもちろんのこと、て自分自身にも「仕え」、「祈り」「声を聞く」ことが必要なのだ。
もちろん「私自身の声」の中には「私欲」もあるだろう。けれども本当にそれだけだろうか?少なくともあなたが「日本人」であるならばそれだけではないはずだ。そこには必ず「公」=太陽、大自然、社会などが出てくるのではないだろうか。それが日本人である。それゆえに子どもたちの貧困に見かねて9,000ヶ所以上の子ども食堂ができているのではないだろうか。
thearkoftestamentofgodによるPixabayからの画像
半径3mの政治
「祭」とはまた人々の喜びであり、楽しみでもある。それは神さまを讃え、感謝し、楽しんでもらうものでもあるが、自分も楽しむもの。ひいてはみんなが楽しむものである。
楽しい時、その時不安は消えている。ならば自分自身をまつろう。自分自身でまつりを作ろう!お天道様と一体となってまつり、楽しみ、安心を作っていこう。そして毎日を祭りにしよう!そうすれば不安なき世界となる。
まずは自分の身近なところ、半径3mを楽しいものとし、そこから世界を広げていこう!そしたら新たな光が見えてくる!!
目覚め
目が覚め、時計を見ると15時を過ぎていた。少し日の暖かさが弱まり、冷たさが増してきたように感じた。家に帰って少しばかり畑に行こう。そして今晩のおかずとなるサニーレタスの葉でもちぎってこよう。
夢の続きは、いずれまたこの砂浜で。今度はガスバーナーも持参して湯を沸かし、暖かいコーヒーを飲みながら本を読もう。そして疲れたら目を閉じて素敵な時を。