令和の選択(洗濯?)

令和の時代が始まります!4月に新元号が発表されるや否や令和Tシャツが店頭に並び、お酒やお饅頭、そして様々な令和グッズが登場し、日本中が新元号「令和」に湧いています。人々はそれぞれ「平成」の30年間に思いを馳せつつ、「令和」の時代を迎えています。令和の時代はどのような時代となるのでしょうか?昭和、平成を振り返りつつ私なりの予測をしたいと思います。

今回の元号「令和」は、天皇が生前退位をなされるということで前もって元号が決められるということで大きく報じられもしましたが、その典拠が万葉集であり、初めて国書からの採用となったということも大きな話題となっています。その万葉集は、奈良時代末期に成立した日本に現存する最古の和歌集であり、大伴家持が編纂したとされています。その中には4500以上歌が収められており、天皇や貴族だけでなく、下級役人、防人、農民までの様々な人の歌も数多く収められています。

その中の「梅花の歌三十二首并せて序」の一文「時に、初春の令月(れいげつ)にして、気淑(よ)く風和(やはら)ぎ、梅は鏡前の粉を披(ひら)き、蘭は珮後(はいご)の香(かう)を薫(かをら)す。」そこから「令」と「和」が選ばれたのですが、この一文の意味は、時は令(よ)い月(※この場合『令』は“物事のつやがあるように美しい”の意)であり、空気は美しく、風は和やかで、梅は鏡の前の美人がで装うように花咲き、蘭は身を飾る衣に纏(まと)うのように薫(かお)らせる。」(ウィキペディアより)となるそうです。

そして時の首相は「春の訪れを告げ、見事に咲き誇る梅の花のように一人ひとりが明日への希望とともに、それぞれの花を大きく咲かせることができる、そうした日本でありたいとの願いを込め、決定した。」と発表したわけですが、果たしてこの令和の時代は、国民一人ひとりが希望を持ち、花を咲かせる時代となるのでしょうか?

余談となりますが、この「梅花の歌三十二首并せて序」は、漢時代に皇帝に仕えていた張衡の「帰田賦」の一節「於是仲春令月,時和氣清;原隰鬱茂,百草滋榮。(時節はなごやか 大気は澄んで岡も湿地も鬱そうと 百草は繁り花さく。)」を参照として作られたもののようです。しかしながらその詩の全体の内容を見ると、「都で皇帝に仕えるのはもううんざりだ。田舎に帰ってのんびり暮らそう。」というもののようです。

まさに現在の忖度政府(首相)を揶揄したもので、学者に一本!という噂もあり、そこに権力に対する知識の応戦という奥深さを垣間見ることができます。

さて、私が「令和」という元号を見て、最初に感じた印象は「冷たい」ということでした。もしかすると新元号を掲げた人の印象も加わったのかもしれませんが、「令」という漢字で最初に思い浮かべる言葉が「命令」であり、どうしても「上から下へ突きつける」ということを思い浮かべてしまうのです。

のちに「令月」とはおめでたい意味であり、美しい月であるということで、実際に漢和辞典を見ると、「令」の意味の中にはよい(善い)という意味が含まれており、なるほどと思うわけですが、その成り立ちを見ると、「令」の文字上半分はあつめる意のシュウ(集)と、下半分は人がひざまずいた形から成り、人を集めて従わせる、いいつける意を表すとのこと(角川新字源より)とあり、やはりどことなく鋭利さを感じてしまうのです。

梅は春の訪れを告げる最初の花なのでしょうが、寒さ厳しい折ですからね…。それでも何故天皇(皇太子殿下)は、令和と決まったという第一報にこやかに応じられたのかと不思議に思ったのです。

その後新元号「令和」に対する幾人かの解説を読み、これは神(天)が命じる時代を意味するものであること、選定の際には人々の攻防があっただけでなく霊的な力が働いたであろうこと、そして「梅」ということで出口王仁三郎の大本世界に通じるものであることを知り、私なりに「令和」という元号となったことに合点がいった次第です。

そもそも元号は前漢の武帝から始まったものであり、その根底にあるのは、「天の代理人たる天子(皇帝)が、時間と空間を超えて世界を支配する」という思想です。(ニコニコ大百科より)。つまり支配下にある国々や人々にその権力者の絶大な力を示すものであるのです。

日本で元号が取り入れられたのは飛鳥時代であり、最初の元号は「大化」です。以降240以上の元号が誕生するわけですが、それは必ずしも天皇の交代時とは限らず、天皇が変わっても元号が変わらぬこともあれば、占いや災いなどによって変えられたこともあるのです。

それが明治となり初めて、天皇一人につきひとつの元号、すなわち一世一元制となります。けれどもこれは当初天皇の詔勅(しょうちょく)により決められたことであり、詔勅とは法律ではなく法律と同等あるいはそれ以上の意味を持つものであり、まさに天皇は現人神、つまり神と同等とされるところです。(ちなみに現在の元号の決め方は昭和54年に成立した元号法に基づきます。)

しかしながらその現人神とされた天皇は、太平洋戦争終戦、すなわち敗戦後、それまでの神格を否定され、現在の日本国憲法によって日本国民統合の「象徴」と規定されるのです。

つまり日本国憲法が制定された昭和の半ばから天皇とは日本の「元首」から日本国民統合の「象徴」となったわけです。そして昭和に続く平成とは、天皇が最初から最後まで「象徴」であられた初めての元号であったのです。故に平成天皇は象徴天皇としてのあり方について模索し続けて来られたのです。

ここで私が思うに、天皇が日本国民統合の象徴となられてから「元号」とはその時代を象徴するものにもなったと思うのです。

昭和とは、四書五経の一つ書経堯典の「百姓昭明、協和萬邦、≪黎民於變時雍」」(百姓(ひゃくせい)昭明にして、萬邦(ばんぽう)を協和し、≪黎民(レイミン:国民)於(おほ)いに變(しげ)り時(こ)れ雍(やはら)ぐ。》)に由来します。その意味は、人々が、それぞれ徳を明らかにすれば、世界の共存繁栄がはかられ、国民は大いに栄え、また和合したということです。

敗戦後からの昭和を振り返れば、日本は高度成長期を経て国民総中流社会が築き上げられる過程であり、会社もひとつの家族の如くありました。後々社畜とも揶揄されたりもしますが、ある意味真の社会主義社会が出来上がるわけであり、「昭和」とはまさに国内の状況を象徴する言葉(元号)であったと思うのです。

それでは平成はというと、その出典は、『史記』五帝本紀 帝舜の「內平外成(内平かに外成る)」と、『書経(偽古文尚書)』大禹謨の「地平天成(地平かに天成る)」であり、その意味することは、「国の内外、天地とも平和が達成される。」ということです。ここで平成という時代を振り返ると、国内はバブル経済崩壊から立ち直ることができず、四半世紀以上失われた時代が続き、遂には子供の貧困という言葉に象徴されるような格差社会となってしまいました。

そして世界をみると「テロとの戦い」という言葉に象徴されるようにこれほど争いの絶えぬ時代はなかったともいえ、どちらも「平成」に込められた意味とは正反対となってしまったように思います。

けれども「平成」をその言葉通りに「平らに成る」と捉えると別の意味で世界を象徴していると思うのです。何故なら平成のこの30年間で世界はかつてないほどその水準が一定化してきたように思うからです。現在世界中の人々がネット(SNS)を通じて瞬時に世界と繋がります。そして良くも悪くも世界の都市はどこもコンクリートをベースとしたビルが立ち並び、似たような光景が広がっています。

平成とは1%の持つ者と99%の持たざる者と世界中で格差が広がったこともありますが、それでもまさに世界の生活水準、都市水準が一定となり平らに成ってきたのではないでしょうか?

さて、先ほど元号とは「天の代理人たる天子(皇帝)が、時間と空間を超えて世界を支配する」という思想がその根底にあると書きましたが、天皇が象徴となってから「元号」そのものが時間と空間を超えて「象徴」となってきたと思えるのです。そしてそれは昭和の時代は「日本(国内)」を象徴し、「平成」の時代は「世界」を象徴してきたように思うのです。

すなわち天皇の交代とともに次元を上げているのです。であるならば次なる元号「令和」は更に次元を上げるのではないかと思うのです。では次なる次元は何かというと、日本から世界へと移り変わったならば、次はズバリ宇宙であり、5次元世界です。

折しも平成の30年間にインターネットが世界中に浸透し、人々はネット(スマホ)を通じて思ったこと、過去(や未来)のことなどが瞬時に見られるようになりました。時間も距離もスマホの中では関係なくなってきたのです。それはある意味(スマホを通じて)5次元の世界を垣間見るようになったとも考えられます。

それでは「令和」はどのような時代となるかというと、ひとつはこの延長線であり、スマホからバーチャルリアリティ(仮想現実)の世界へと移り行くことで、よりあたかも実際に体験したかのように思える世界がやって来るのでしょう。見るから体験(したように思える)への上昇です。

しかしながら最初に「令和」言葉から感じた「冷たさ」、これを無視するわけにはいきません。何故ならそれはインスピレーションであり、直感です。直感とはある意味5次元世界のものであり、次なる時代を象徴するものだからです。

さて世界はこの30年間に都市水準、経済水準が一定化され、インターネットが浸透するという発展を遂げましたが、同時にこの間にこれほどまでに地球環境が破壊されたことはないでしょう。そして現在実世界の人間はその破壊した分の報いを受け始めたと言ってもよいでしょう。

毎年世界中で大規模な自然災害が発生するようになっています。それは年々ひどくなっています。ある意味地球は限界状態に来ていると言っても過言ではないかと思います。その裁きを宇宙から、地球から、そして天から受けるのがこの令和となるのではないかと思うのです。

そしてもうひとつ。あらゆるものは周波数からなっていることが科学的にも明らかになりました。言葉もそうです。すべての言葉、その音にそれぞれの響きがあります。そして日本語とは言霊です。今この言霊が再び大きく見直されています。日本語の音はひとつの文字だけでなく、様々な文字や言葉(漢字)に変換することが可能です。「令和」の「令(レイ)」は「霊」であり、「礼」です。あるいは「零」であり、「糺」でもあります。思うに令和の時代は「霊」に和するか「零」に和するか上(天)から選択を迫られる時でもあると思うのです。

今世界は大きく二つに分かれているように思います。ひとつは5次元の世界を知り、意識を上昇させようとする人々の世界です。もうひとつは目先のお金や権力に溺れ、しがみつき、今だけ、金だけ、自分だけの世界にいる人々の世界です。「霊」とは私たちの上の世界であり、次元上昇、5次元です。「零」とはゼロであり、元(もと)に戻ることです。この2つの選択を迫られてくると思うのです。

では地球はどのような方向を望んでいるかというと、明らかに5次元の方向へ向かっていると思われます。何故ならこの世はあらゆるものが生成発展することが原理であり、そしてまさにこの原理は加速しているからです。故に私たちが地球や大自然に礼を尽くすならば、それは地球の意思と同調することであり、「霊」の方向、すなわち次元上昇へと向いていくことになるでしょう。

しかしもしエゴ・欲望の追求に走るならば、それは地球の意思に反することとなり、それは反発であり糺されることとなります。すなわちそれは零(ゼロ)へとリセットされることでしょう。ゼロへのリセットとは原始の世界へと戻ることです。

今ネットの発展により、世界中のスピリチャルが繋がりあい、それぞれが高めあってもいます。同時にこれまで隠されてきた真実が明らかになりつつあります。

その隠された真実の1つがこれまでの地球にはいくつもの文明が存在していたということです。それは世界中に見られるオーパーツ(out of place artifacts≪場違いな人工物))を一堂に見ると明らかです。正史における文明にそぐわない数々の古代の出土品。当時の技術では製作が不可能と考えられる加工品。それらは明らかにかつての地球に別の文明があったことを物語っています。そしてそれらは次元上昇した文明もあれば、元(原始)に戻ったものもあるようです。今日の私たちは先の文明が元に戻った(リセットされた)ところからの発展なのであり、そしてまた現在の文明も岐路に立たされているのです。

令和の時代とはまさにこの「霊(次元上昇)」と「零(リセット)」の選択を意味していると思うのです。残念ながら今のところ「令」そのものがある「零」に近づいているように思われます。果たして私たちはこのことを気づくことができるのでしょうか?

気づき自らのあり方を糺し、礼を尽くせば、乗り越えられることでしょう。そして冷たさの中にも美しさ、きらびやかさを感じる時代となり、新たな希望を見つけることができるでしょう。

しかしもし気づかなければ、厳しさが増す中での本当に冷たい時代となり、大きな裁きが下されることでしょう。あなたはどちらを選ばれますか?花を咲かすも咲かさぬもあなた次第です。

さあ、令和の時代を生きていきましょう!

らいふあーと21~僕らは地球のお世話係~

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